「治療しますか」と聞かれた日

2026年5月1日。

連休前の、よく晴れた日のことだった。

その日、母は本当は「付き添い」だったはずだ。

足の悪い父──心筋梗塞の既往と頚椎症で、長く歩けない父──の通院介助。それが、母の今日の役割だった。

でも、父の診察を待っている廊下で、母は、倒れた。

そのまま救急に運ばれ、検査が始まり、そして見つかったのが、ステージIVの大腸癌。多発性肝転移。

「付き添い」だったはずの母が、患者になった。

その日から、いろんなことが、ぐるぐると入れ替わっていった。

主治医との初対面

5月1日。 あの日、私は両親と一緒に、初めて主治医に会った。

医師は、とても静かな、丁寧な口調の人だった。 病状の説明を、ゆっくりと、母にもわかるように話してくれた。

そして、最後に、こう聞いた。

「治療……しますか?」

沈黙。

母は何も答えなかった。 私も、何も言えなかった。

その沈黙の中で、最初に口を開いたのは、父だった。

足が悪くて、母に支えられてここまで来た父が、母の顔を見て、優しく、でも、懇願するように、言った。

「ね、治療するでしょ。しないと、しょうがないでしょ」


母は、しばらく黙っていた。

そして、小さな声で、

「します」

と言った。


「では、生検検査の結果が8日に出ますので、その時、入院日を決めましょう。」

医師の声は、温かかった。

母は、震える声で、もう一度、聞いた。

「治療しないと……どのくらい、ですか。」

医師は、少し間をおいてから、答えた。

「1年くらいです。」


母は、震えていた。 小さな身体が、椅子の上で、はっきりと、震えていた。

私は、看護師として、こういう瞬間を見たことがある。 他人の家族の、こういう瞬間に、立ち会ってきた。

でも、自分の母の震えは、初めてだった。


病院の自動精算機の前で

会計を待っている、両親の後ろ姿。

父は車椅子。 母は、その車椅子を押しながら、自動精算機にバーコードを通している。

ついさっき「あなたの命は、治療しなければ1年です」と告げられた人が、家族の会計を、している。

私は、その後ろ姿を見て、胸が張り詰めた。 看護師として、娘として、人として、全部の感情が混ざり合って、息ができなくなりそうだった。


でも、泣けなかった。 ここで泣いたら、母がもっと怖くなる。

私は、こらえて、母と父を車まで送った。

母は、車に乗る前に、ぽつりと言った。

「怖いね。」

ただ、それだけ。

でも、その「怖いね」は、私が今まで聞いた中で、一番、震えていた。


それでも、私は

母を、家まで送り届けることは、できなかった。

LUCAを、迎えに行く時間が、迫っていたから。

母は足の悪い父の代わりに、駐車場から病院の玄関で車椅子で待つ父のもとへ車を移動させ

そこからは父が運転手になり、父の介助で家まで帰してから、私は車で動けなくなった。 ハンドルを握ったまま、涙が止まらなかった。

「ママ、遅いよ」

と、学校の携帯電話から、先生と一緒にかけてきた、LUCAから電話が来た。

私は、急いで涙を拭いて、エンジンをかけた。


役割が、入れ替わっていく

母は、ずっと、父を介助してきた人だった。 家族の中心で、庭を整え、料理を作り、孫を抱きしめてきた人だった。

その母が、患者になった。

そして、その母を支えるのは、これから、私と父になる。

足の悪い父と、シングルマザーの私と、ASDの小学校3年生のLUCA。

「家族の中心」が、ぐらっと、揺れた。


それでも、母は

母は今、治療を始めようとしている。

「延命はしないでね」と、何度も、私に言った。

「最期は家にいたい」とも、言った。

それを聞くたびに、私は、胸が張り裂けそうになる。 でも、看護師として、娘として、私は、母の意思を尊重する。

それが、命の現場で、私がずっと見てきたことだから。


同じ気持ちの、誰かへ

もし今、あなたも、家族の「治療しますか」という瞬間に、立ち会ったばかりなら──

泣いていい夜が、いっぱいあると思う。

私も泣いている。

でも、あなたの家族が「します」と言ったなら、それは、あなたと一緒にいたい、ということ。

「しません」と言ったなら、それは、最期の時間を、あなたと過ごしたい、ということ。

どちらでも、それは、あなたが愛されている証拠です。


5月1日、母と父と私は、人生の新しい局面に、足を踏み入れた。

私たちはまだ、この坂道のどこにいるのか、わからない。

でも、坂の途中に、ひとつだけ、はっきり見えているものがある。

母が、私に教えてくれた「生きること」と「終わること」の、両方を、私は最後まで隣で見つめていく、ということ。

それが、娘としての、看護師としての、私の覚悟です。


訪問看護師(Psychiatric Visiting Nurse)として精神科・一般訪問看護に従事しながら、ASD・ADHD・低緊張のあるLUCAを育てるシングルマザー。母はステージIV大腸癌・多発性肝転移と診断され、本人の了承のもと、家族の記録を綴っています。

autism-mama-diary.com


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